『ザ・バンカー』は、公民権を擁護すると同時に、アメリカ資本主義で大金を稼ぐことは素晴らしいことであり、素晴らしいことだという考え方を体現した映画だ。そして、想像を絶するほどの財力を持つ企業が運営するサービス、Apple TV+初の長編映画の一つでもある。AppleはLGBTをはじめとする公民権擁護に積極的に取り組んでいる。さらに、公開スケジュールの混乱で劇場公開が中止され、プロデューサー(主人公の実の息子)の名前がクレジットから削除されたことを考えると、数時間の時間を割くには最適な作品と言えるだろう。
『ザ・バンカー』の大きなテーマの一つは、移動である。タイトルにほのめかされているような金銭的な利益だけでなく、物理的、社会的な立場における個人の地位という意味でも、このテーマは重要だ。バーナード・S・ギャレット(アンソニー・マッキー)という黒人男性のキャラクターに、このテーマが見て取れる。彼は1950年代、故郷テキサスには自分の数学的才能を活かす土壌がないことに気づき、ロサンゼルスに移住した。ギャレットの後にビジネスパートナーとなる、ロサンゼルスの社交界のほぼあらゆる階層を渡り歩く術を心得ているジョー・モリス(サミュエル・L・ジャクソン)というキャラクターにも、このテーマが色濃く表れている。そして何より、この二人が才能を駆使して、かつては白人だけの領域だったより良い地域にアフリカ系アメリカ人が移住できるよう、建物を購入しようとする様子に、このテーマが見て取れる。実際、『ザ・バンカー』は銀行を描いた映画であると同時に、不動産を描いた映画でもあるのだ。
ギャレットとモリスは、1950年代から60年代のカリフォルニアという比較的温暖な社会環境下でも、数々の社会的な障害に遭遇する。それらを回避するため、彼らはマット・シュタイナー(ニコラス・ホルト)をフロントマンとして雇い、裏で糸を引いて、有利な状況を作り出す建物の購入を画策する。
『ザ・バンカー』の社会風刺が最も色濃く表れているのはここだ。銀行をアメリカンドリームの門番として描き出す数分間よりも、なおさらだ。善意から生まれた詐欺を成功させるため、ギャレットとモリスは、白人社会の最富裕層の間で自信を持って歩むために必要なあらゆるスキルをシュタイナーに教えることになる。金や代数の基礎を間違えるシュタイナーの姿は、『ザ・バンカー』の数少ない笑いの瞬間の一部となっている。計画を実行に移す時、ギャレットとモリスはタクシー運転手と清掃員に変装し、シュタイナーはきっちりと着飾る。
この設定は、私たちがマナーや礼節と結びつけるあらゆるものの根源は、特権とパフォーマンスにあるという考えを、強く印象づける。ギャレットとモリスは、シュタイナーに教えるスキルを既に知っていた。シュタイナーがふらりと立ち寄るクラブに彼らを入れない唯一の理由は、肌の色だけだった。実際、この問題はあまりにも根深く、映画の奇妙で予想外の欠陥の一つにもなっている。20世紀半ばの二人の黒人男性の創意工夫を称えるこの映画のかなりの部分が、カメラが白人男性に長く留まっているのだ。映画の後半で白人男性に焦点が当てられると、『ザ・バンカー』は当初の活気を失ってしまう。
しかし、少なくともカメラが向けられている間は、この素晴らしいキャスト陣の他の皆と同じように、彼も輝いている。それでも、ジャクソンはここで観客を魅了し、彼の奇抜な演技と語り口にぴったりの役柄に心地よく溶け込んでいる。もし彼がいなかったら、『ザ・バンカー』は救済措置が必要だったかもしれない。
冒頭の楽観的な展開にもかかわらず、『ザ・バンカー』は、登場人物たちが黒板に方程式を走り書きしたり、銀行用語の知識をひけらかしたりする時の興奮を、うまく表現できていない。この物語は、銀行をテーマにしたドラマを作る最大の理由の一つと言えるかもしれない。しかし同時に、銀行が強盗の舞台以外で映画にほとんど登場しない理由を改めて思い起こさせる。キャスト陣の力量や、愛情を込めて想像された1960年代のセットにもかかわらず、『ザ・バンカー』は歴史番組で特によくできたドラマに仕上がったのではないかと思える。
りんごアンソニー・マッキー、ニア・ロング、サミュエル・L・ジャクソン、ニコラス・ホルトが、 『ザ・バンカー』の幸せな瞬間のひとつを祝う。
『ザ・バンカー』の重要性は、平等な公民権を求める闘いが、必ずしも熱烈な演説や国内大都市の街頭での反抗的なデモ行進だけではなかったことを示している点にある。場合によっては、紙切れに鉛筆で数字を書き込んだり、善意の行為として金銭を交換したりすることもあった。また、安易なやり方で銀行制度そのものを悪の組織として描くのではなく、恣意的な障壁を取り除き、貪欲に染まっていない銀行が、いかに夢を実現するための入り口となり得るかを示しようとしている点も特筆に値する。しかし、 『ザ・バンカー』の最後の数時間が示すように、それはおそらく今後も受け入れられないだろう。